きみは薔薇より美しい

去年の年末、わたしはこういうエントリを書きました。紅葉を見ると高揚する話 - きみのことを話していたのさ
ゆうとくんは赤という色のような人だと思いました。でも今はその色が変わってきたと感じています。


5月に入りラジオ当番が連続していて、先週までが知念くんと、今週からは山田くんとのターンです。
聴きながら、ゆうとくんは変わったなあと思います。まず声が変わりました。聴きながら、確かにゆうとくんの声なのに「……誰!?」と思うこともしばしばです。ちょっと鼻にかかる甘ったるさがあったのに、くぐもった感じが消えて妙にすっきりと響く声になっています。びっくりします。
そして会話も変わったなと思います。なんと言っても相手の話を聞くようになりました。自分の意見をひたすらべらべら喋ることがなくなりました。ちゃんと会話として成立するようになっています。びっくりします。相手の話を聞いたり、ペースに合わせるようになった分、ゆうとくんの持つ確固たる信念や主張を聞くことが少なくなって何か物足りないような気はします。
そういえば、その時はただうっとりするだけで思い至りませんでしたが、思い返すとコンサート中のゆうとくんも随分変わりました。「ちょ…!なにやってんの!?」と思うことがほとんどなくなりました。やたらとマイク回したりしないし、MC中に話聞かなかったりしないし、振付の中に余計な動きを無理やり挟むことも少なくなったし、ひとりだけ自分の世界に入った動きをすることも少なくなりました。見ていてハラハラすることがほとんどないです。安心してうっとりできます。


赤は強力な色です。周囲に交わらず焼き尽くす炎です。孤高さの象徴です。去年のゆうとくんはまさしく赤だと思いました。
ですが、今年のゆうとくんは違います。周囲との調和を覚えました。孤高の赤ではなくなりました。言うなればピンクです。きれいに整備されたイングリッシュガーデンで、5月の爽やかな陽光を受けてキラキラと輝き咲き乱れるバラのようなピンクです。鮮やかでいてやさしく可憐で、生命力を感じます。見る者に悦びを与えることには変わりませんが、決然とした意志の中には厳しさではなく優しさと慈悲があふれています。


わたしははじめ、ゆうとくんの持つエキセントリックさが好きでした。過剰な無邪気さや過剰な正義感や過剰な純粋さが好きでした。過剰さは時に周囲と摩擦を生みます。その摩擦が好きでした。身体が成長していく一方で心はそれに追いつけず、暴走する無邪気さを制御しきれない、そんな感じがしました。そのギリギリのところでバランスをとっている危うさが好きでした。
でも、そんな時期は過ぎたのだと思います。ゆうとくんは大人になって、自分の中の暴走する情熱を制御できるようになりました。
そういう危うさのひとつひとつを愛していたので、なくなったことは寂しいです。ですが悲しくはありません。もっと悲しくなるかと思っていたのですが、意外とそうでもなかったです。なぜなら


今のゆうとくんが、ものすごくかっこいいからです。


いつもこれがオチで申し訳ないのですが、本当に心底思うのです。寂しさを吹き飛ばしてあまりあるほど、そんなものどうでもよくなるくらい、かっこいいというそれだけで心が満たされるほどかっこいいからです。去年の段階でも、その時点でのゆうとくんが好きすぎて、「もう1ミリでも成長したらいやああああ!!!」って言っていたので、成長した方がさらに良くなるなんて意外でした。そんなことがあり得るとは正直思ってませんでした。暴走する過剰さを調整できるようになった今、まだ残っている過剰さは美しさです。どの角度から見ても、いつもどんな表情も、この上なく美しいです。美しいとはこういうことかと思います。まさに、きみは薔薇より美しい。


わかりやすく言うために色が変わったと表現しましたが、それでもわたしにとって「赤」であることには変わりません。ゆうとくんを見ると情熱の炎が胸に広がり鼓動が早まります。抗うことはできません。「生きていることは何とよいことでしょう。見ることはなんとすばらしいことか!」と思わせてくれます。
名古屋で、春から夏へ移り変わる一瞬の季節の、17才のゆうとくんの一瞬の美しさを見るのが楽しみです。