回転する日常

また夏がやってきますね。
年明けの横アリでまたサマリーがあると発表されて、その時は「いやいや、また会場があそことは限らないし!!公演内容があれなわけじゃないだろうし!!!」とか言っていたものですが、結局同じ会場で似たような日程で催行されることが決まり、どうやら内容も同じようなものになるらしいです。その間いろんなことがあって開催自体がどうなることやらと思われていた時があったり、その後もいろいろあったりしましたが、結局また去年と似た夏がめぐってくるわけですね。
去年のサマリーは、公演内容自体は個人的にあまりおもしろいものではなかったですが、おたくの人たちが同じ場所に集まっては同じ公演を見るということが積み重なって非日常が日常と化していく様子がおもしろかったです。当たり前ですが、見ている人ひとりひとりに仕事や学校や家庭があり、それぞれの日常と人生があるという事実に胸が熱くなります。まったく何の因果でこんなところに集まっているのやら、と感慨深くなります。もちろん出演している人々にもそれぞれの生活があります。いろんな人の人生があのひとつの場所で交錯するということに物語を感じずにはいられません。
サーカスというもののひとつの典型として、都市から都市へと移動するという特性がありますが、サマリーというサーカスは同じ場所に固定されています。移動するのは見る側の方です。サーカスという非日常が固定されて、日常の方が移動します。あのホールを中心にいろんな人の人生が回転していってその回転によってできる渦に巻き込まれていくようです。きっとまたじゃんぷが円形に吊るされて空中を回転するのでしょうが、それを見ている人たちもまた回転しているのだと思います。ぐるぐると回って自分がどこにいるのかすぐに見失ってしまうようです。ずいぶん遠くまで来たと思ったのにまた気づくと同じ場所に立っていたりするのでしょう。


カルヴィーノの『見えない都市』という物語がとても好きで、たびたび読み返します。これは派遣師マルコ・ポーロフビライに今まで旅した都市について語って聞かせるという形式を取る物語です。その中の一章「精緻な都市4」がこれです。  

ソフローニアの都は、二つの半都市から成り立っております。一方の都市にあるものは、登りも下りも険しいジェットコースター、放射状に並ぶ吊り鎖の回転木馬、ゴンドラがゆっくりとむきを変えてまわる観覧車、オートバイ乗りが頭を下にして突っ走る奈落の底、中央には縄梯子が何本も房のように垂れているサーカスの大テント。もう半分は、石とセメントと大理石づくりの都市で、銀行や、仕事場や、お邸や、屠殺場や、また学校など、そのほかいろいろなものがございます。半都市の一方は固定されておりますが、他方は臨時のもので、その滞在の時が終わると、釘を抜き、ばらばらに分解して、持ち去ってゆき、また別の半都市の空地にそれを移し建てるのです。

こうして毎年、その日がやって来ますと、人夫らが大理石の飾り壁を取り外し、石壁やコンクリートの柱をおろし、お役所や、記念碑や、造船所、石油工場、病院などを片付けて、すっかりトラックに積み込むと、広場から広場へと毎年の行程をたどってゆくのでございます。あとには射的場やら回転木馬やらの半都市が、まっ逆さまに駆け降りるジェットコースターの悲鳴ともども、その地に残って、もう何ヶ月、また何日したら移動都市のキャラバンが戻って来て、まっとうな生活が再開されるか、指折り数えて待つばかりなのでございます。

これを去年読んだとき、なんという水道橋!!とおののきました。暗示としか思えません。
きっとおたく達が日常を引きずりながら現れることによってあの場所は都市として成立するのでしょう。半分が欠けていた一年間またやってくるのを待っていたんでしょうね。
アイドルの集団が作る公演が城なら、ファンが作るのは都市なのかもしれません。アイドルのファンになるというのはその都市の住人になることなのでしょう。


見えない都市 (河出文庫)

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