欲望の実る棚田

JUMPコンに行くといつも客席の異様な光景に驚きます。客席には隙間なくうちわがびっしりと生えています。公式グッズとして売っている顔写真入りのを掲げている人もいますが、多くは手作りうちわです。ステージに近い席はもちろんのこと、スタンドの上の方まで隅から隅までびっしりとうちわで埋まっていて、その光景は何度見てもあ然とします。
もちろんジャニーズのコンサートにおいてうちわを持つ人がいるのは一般的な風景です。しかし少なくともわたしの知っている他のグループ(嵐やカツンなど)とはうちわの密度が違います。JUMPより後にデビューしたグループについては明るくないので最近は全般的にそういうものなのかもしれませんが、それにしても凄まじいです。
うちわには好きなメンバーの名前が入っています。そして、それとともに「〜して!」とファンサービスを要求するものも持っていたりします。これを持つ理由は様々でしょう。それは自分の気持ちの宣言であり、誇示です。持つだけで得られる高揚感というのもあります。周囲への威嚇でもあるかもしれません。しかし第一には欲望の表明です。「こっちを見て!」「わたしを愛して!」という叫びです。うちわがびっしりある客席はその叫びが怒号のように響き渡っているかのようです。
翻訳家の岸本佐知子さんがエッセイの中で、短冊が飾られた七夕の笹を「人々の願い事をたわわに実らせた欲望の木」と表現していましたが、それならJUMPコンの客席は、少女たち(もしくはかつて少女だった人々)の願い事をたわわに実らせた欲望の棚田です。一面に欲望の果実を実らせている田園です。
なんだかすごい光景だなと思います。
そしてJUMPのコンサートの目的は、欲望の果実の収穫です。
JUMPのメンバーそしておそらくステージに出ているジュニアたちは、その欲望に忠実に応えていきます。まんべんなく笑顔をまきちらし職人芸のような正確さでファンの欲望を片っ端からひとつずつ叶えていきます。わたしは裕翔くんのファンで、裕翔くんはファンサービスを異常なまめさでやってくれるので特にそう思うのかもしれませんが、おそらく他の人々もファンの欲望に対して何らかの形で応えているはずです。
その光景は収穫です。たわわに実っている欲望の果実を片っ端から摘み取って収穫しているかのようです。それを見て、このコンサートにおいてもっとも大切なこと、それはファンの欲望を忠実に叶えることなのだと思いました。


山田くんがコンサート終盤の挨拶で、「いっしょに折り鶴を折ったという共同作業を忘れないでください」と言うのですが、最初にこれを聞いた時ものすごい違和感を覚えました。
わたしはコンサートというのは、ひとつの場でアーティストと観客がいっしょに作るものだと思っていました。同じ空間で同じ時間を過ごして、そのことが何よりも共同作業なのではないかと、思っていました。それはもちろん理想論ですが、そういう理想の元作るものだと思っていました。
でも彼らはそういう風には思っていないようです。そう思っていたらあのような発言にはならないと思います。そういえばJUMPコンでは、ジュニアやメンバーを紹介する時、「来てくれたお客さんにも大きな拍手!」的なことがありません。彼らにとって、客はいっしょにコンサートを作る協力者ではないのです。それは客をないがしろにしてるわけではありません。むしろ感覚としてはまったく逆で、お客さんはとても大切なのでしょう。だからこそお客さんは協力者ではなくサービスをする対象なのです。
だから共同作業という実感を得るためには、違う形の証拠が欲しくなるだと思います。
JUMPコンにおいて最優先されることは、とにかく今来ている人たちがいちばんに望むもの(客が望んでいると彼らが思っているもの)を提供することです。それがわかったので、わたしが今まで疑問に思っていた謎も少し解けてきました。
2月に発売されたシングル「SUPER DEICATE」のカップリングには「JUMP around the world」という曲が入っています。その時点では3月に始まる予定だったアジアツアーを控えてそのようなタイトルですから、アジアツアーのための曲だと思われます。
その曲を今回のツアーではやりません。
海外は1か所しかなくなったし時期もずれ込みましたが、、このコンサートはアジアツアーと冠されたコンサートなわけです。普通に考えて「JUMP around the world」をすることが予想されます。それなのにないのです。香港でやるかもわかりませんが、日数も動員数も桁違いに多い横浜ではやらないのです。
最初は「なんでだよ!!!!」と思いました。けれど、これによって彼らのやりたいことが理解できたように思います。彼らは、楽曲によってメッセージを伝えるということをしないのです。少なくともそこに重きを置かないのです。
楽曲に重きを置かないことは、6月発売のアルバムに収録される曲をこの段階でたくさんやってることからもわかります。まずCDを聞いて予習して、これはどういう演出でやるのだろうと予想したりする楽しみはありません。それは突然提供されます。Hurry Upの布を使ったダンスなど新しい演出はとてもおもしろかったし見応えがあったのですが、その曲でやる必然性は感じなかったです。むしろ大切なのはその楽曲じゃなくても成立する演出なのではないかとすら思います。
そして、楽曲の披露順によって何らかのメッセージを発したり物語を提示していくことにも重きは置いていないようです。ひとつひとつの曲の振りや演出はおもしろいものもあるのですが、この曲からこの曲への流れが最高!といったところはあまりありません。曲順をシャッフルしてもコンサート全体の印象はあまり変わらない気がします。
楽曲や全体の流れを犠牲にしても優先されること、それが「その場での客の欲望を満たすこと」なのだと思います。
欲望を満たすために大切なのは「お約束」をきちんとやることです。踊る曲は踊り、ファンサ曲ではファンサをし、バンド曲ではバンドをする。期待を裏切らないことが大切なのです。期待を裏切ることは欲望を満たせないことにつながる、という論理です。そう思っているのならいろいろと納得がいきます。それまでとまったく違う演出をするよりも、過去に評判が良かったものをその通りきっちりとやる、もしくは同じ枠組みで進化させる、という方が満足させるものを提供できるという考え方なのだと思います。きっとそう思って、同じ枠組みをやり続けることを選んだのでしょう。
わたしはいつもコンサートに行くたびに、同じような場面で同じ曲を似たような演出でやるのか不思議だったし、そのことに歯がゆさを感じていました。ただ、今回のコンサートで、同じことをやり続けることによって、とにかく客の欲望を満たすということにおいては精緻化され洗練されていると思いました。
コンサートが終わった後、本当に「裕翔くんかっこいい!!!!幸せ!!!!!!!!」と思いました。それ以外のことは思いませんでしたが、それは本当に強く思って、それに集中できました。それに集中できるというのは、そういう気分にさせるコンサート内容だったということです。
ひとりのかっこよさを堪能するためには、全体の流れの良さや、強いメッセージ性などはいりません。その場の萌えのためには文脈はむしろ邪魔なのです。そしてソロコーナーもいりません。自分が好きなメンバーが出ない時間は少ないほどいいのです。
なぜJUMPコンにソロコーナーもしくは2人や3人でやる曲がないのか、あった方が新しい展開になっていいのではないかと思っていました。ですが、確かに全員で踊る曲が多い方が、ひとりの出番が多くなっていい気がします。とにかく好きなメンバーがステージ上にいることが是とされるなら、全員で踊る曲、もしくはファンサ曲が多いというの合理的です。出てさえいれば一定の満足感は得られますから、その方が効率的に全体としての満足度が上がります。
踊りもかっこよくなってファンサも丁寧になって、パフォーマンスの精度が上がったので、その考え方の元の満足感は増えました。
そういうやり方もありなんだなと思いました。わたしが思い描いていた方向と違いましたが、これはこれでJUMPというグループの効用が最適化されるひとつのやり方なのだと思います。確かに「楽しかった!!!!!!」と思えるコンサートを作ったのですから。
このやり方は、それまでと違うまったく新しいものを提示することはないので、この先にもこれが有効であり続けるかは未知数です。ただ、現時点ではいい答えなのだと思います。
そして、彼らが客の欲望に応えようとするならば、こちらも欲望をわかりやすく提示しようという方向に誘導されます。うちわがぎっしりと並ぶ光景は、ある意味彼らが誘導したものでもあります。これかれも客席には欲望の果実が実り続けるでしょう。それがいいことかどうかわかりません。それでもわたしもまた欲望の棚田を実らせる一人になるのでしょう。