最近のJUMPのパフォーマンスを正当に評価できない理由あるいは告解的なサムシング

最近のJUMPのライブやパフォーマンスについて言及するたびに「悪くないけど良くもない」「好きでも嫌いでもない」などと歯切れの悪いことばかり書いてますが、そう思ってしまうのはパフォーマンスの内容がどうということではなく、わたしの受け止め方の問題でもあります。なんでこう中途半端なことばかり思ってしまうのだろうと思うか考えてるうちに、だんだんその原因がわかってきました。わたしはJUMPのパフォーマンスはそれがJUMPのパフォーマンスであるというだけで基本的に肯定的に受け止められないのです。
自分でもわかってはいたのですがあえて考えないようにしていたことがあります。それをちょっとまとめてみたいと思います。
以下、ただわたしがすっきりしたいだけの告解です。誰のことも褒めてないしネガティブなことしか書いていませんのでご注意ください。


何日か前、JUMPにこうなってほしいという希望がないと書きましたが、それはちょっとぼかした表現です。
わたしは裕翔くんが好きです。わたしにとって裕翔くんは特別です。裕翔くんの担当を名乗ろうと決意した日からわたしにとって裕翔くんだけが特別です。裕翔くんがいちばん輝ける形で、そのために用意されたステージで活動している姿を見たいと。
そしてわたしには見たくないものがあります。JUMPという集団のピースのひとつである裕翔くんを見たくないのです。
他のメンバーと同列(もしくはそれ以下)の扱いをされているのを見たくないんです。センターかそうでないかはそれほど重要ではありません。センターであろうがピースのひとつです。そういうピースのひとつであってほしくないんです。
バカバカしいことを言っているのはわかってます。アイドルグループの一員であることは構成するピースのひとつであることです。全部にはなりません。むしろピースのひとつとして存在できることは喜ばしいことです。そんなことはわかってます。でもわたしにとっては裕翔くんが全部です。全部じゃないというだけでわたしにとっては「望まざるもの」です。もちろん裕翔くんを見る機会があるのは嬉しいです。でもグループの構成要素であることを望んではいません。だからJUMPがJUMPとしてパフォーマンスをすればそれだけでわたしにとっては「悪くないけど良くもない」のです。
不合理だしヒステリックな見方だとわかっていますが、どうしてもわたしはそう思ってしまうのです。


でもこの感情は矛盾があります。出発点が捻れてます。どうしてそう思うようになったかという出発点を考えると、今そう思うことは大いなる矛盾です。
裕翔くんはジュニア時代は入ってすぐ目立つ位置で仕事をするようになったいわゆるゴリプジュニアでした。センターでマイク持って歌って、いるだけで年上の人々にかわいがられる存在でした。そのまま順調な活動されてデビューして、デビューした後にセンターじゃない位置にまわされるという憂き目を見るようになり、それからいろいろあって今に至ります。わたしが今裕翔くんに望むことは、ゴリプ時代の扱いに近いことです。でも、裕翔くんがゴリプのままひたすらど真ん中を歩む道筋であったら、たぶんわたしは裕翔くんを好きになってはいません。
わたしが裕翔くんを担当と呼ぼう!と心に決めたのは2010年です。その頃の裕翔くんは本当にかっこよかったです。今思い出しても心震えるほどかっこよかったです。今のかっこよさとは全然違う、触れたら今にも壊れてしまいそうな繊細な美しさがあって、不安定だからこそ人をひきつけてやまない色香がありました。年齢的なことは大きいと思いますが、あの時の裕翔くんの発する色香に、立ち位置が下がった事実が影響を与えたことも間違いないと思います。不当な扱いを受けたことが天真爛漫だった裕翔くんに陰影を与えて、絶妙な魅力となっていました。そこにわたしはひかれたのです。
そして、立ち位置が下がって出番も少なくなっているという事実を受けて、「わたしが応援しなきゃ!」と思ったことが好きを加速させた面も大いにあります。風向きが悪い状況で「わたしが応援しないと消えちゃうかもしれない!わたしが応援しなきゃ!今しなきゃ!!」と思うことは、オタクにとってはある意味蜜の味です。それを楽しんでるという面もありました。だから裕翔くんがど真ん中を歩く人であったらわたしは好きになっていないのです(それでも顔が好きという理由で好きになってた気もしますが、仮定の話をしてもしょうがないので置いておきます)。
わたしはJUMPという枠の中で納得できる居場所を見つけられずもがいている裕翔くんを好きになりました。
鳥籠から出たがってもがいている鳥を愛でるようなものです。そんな愛で方は悪趣味です。そしてそれを愛でたところで未来がありません。その鳥籠に居場所を見つけて安住しているのを見ても悲しいけれど、そこから出ていなくなってしまったらもっと悲しいし、そのままもがき苦しんでいるのを見続けたらそれはそれで悲しくなるでしょう。どうなったところで悲しいのです。端から明るい未来なんてなかったのです。
でもその姿にひかれてしまった。それもしょうがないのです。強烈に引きつけられるものがありました。その後の苦しみは歪んだものを愛でた代償です。


これはわたしの妄想ですが、2009年から2010年までは裕翔くんはJUMPの中でもがいていたと思います。JUMPというグループのピースのひとつどころかピースのひとつですらなくなるような状態で、パフォーマンス的にも、そして同年代との子たちとの人間関係という点においても、自分がどうふるまっていくか迷っていたように思います。それが変わったなと思ったのが2011年です。
当時JUMPコンの最後は、メンバーがはけた後山田くんだけが出てきて会場に「愛してるぞ!」的なことを言うと(そして会場がキャーッと沸くと)お終いの合図となるという風習がありました。山田くんだけのこともあれば知念くんとふたりでやることもありました。わたしは奇妙な風習だなと思ったし、山田くんだけが人気があるのを見せつけるようで感じ悪いなと思っていましたが、裕翔くんが関係ないのでどうでもいいことでした。それが2011年の春コンの最終日、最後にいつも通り出てきた山田くんが突如として裕翔くんを呼んだのです。そして二人で声を合わせて愛の言葉を言って投げチューをして去っていきました。
わたしはそれを見てものすごくショックを受けました。本当にショックでした。ショックすぎて記憶がかなり飛んでいます。名古屋だったのですが、名古屋からの帰り道、本も読まず携帯も見ずひたすらぼーっとして過ごしました。帰った後部屋でボロボロ泣きました。その時やってたツイッターアカウントも消しました。
すべてが嫌でした。山田くんが裕翔くんを呼んだということは、山田くんが裕翔くんより上の立場であるということの証です。それだけでも嫌なんですけど、それはもうわかってることでした。でももっと嫌だったのは、裕翔くんがその呼びかけに喜んで応じて、嬉々として奇妙な風習に従ったことです。ということは、山田くんが上の立場であることを認めたうえで、招かれたことを喜んでいるということです。裕翔くんが「屈服した」と思いました。本当にショックでした。でも、その最後の挨拶はダメ押しみたいなもので、裕翔くんが変わったことは、そして他のメンバーの裕翔くんに対する態度が変わったことはその前から明らかでした。MCでも裕翔くんの扱われ方がはっきりと変わっていました。ひとことで言うと「仲間に入れていもらっている」感がしました。それでザワザワとしていたところにその最後の挨拶があってわたしに衝撃が走りました。
その時は、何がそんなに嫌なのか自分でもわかりませんでしたが、というか考える事すら嫌でしたが、あの時裕翔くんはJUMPのというグループのピースのひとつであることを受け入れたのです。居場所を見つけたという言い方でもいいかもしれません。自分の居場所と適切な役割を見つけたのです。あの時に、というかもうそのだいぶ前から変わっていたのでしょう。わたしが感じてなかったか、見て見ぬふりをしていただけで。そしてわかりやすい象徴があの挨拶でした。
よく考えれば良いことです。自分の居場所を愛するようになったのだから、歓迎すべきことです。愛する子の周りからの扱いが良くなって、それを本人が喜んでいるのだから、同じように喜ぶべきです。
でもわたしにとっては嫌で嫌でたまりませんでした。だってわたしはここは居場所じゃないと思っている裕翔くんが好きだったのですから。
とにかくその時は本当ものすごくショックを受けました。ショックすぎてわたしの中の何かが壊れました。JUMPというグループが嫌いになったのです。どう考えても言いがかりでしかないんですが、その時はそうするしかなかったのです。ぬるいルールの中に裕翔くんを引きずりこんだ(ようにわたしには思えた)JUMPが憎かったです。本当に嫌いになりました。2011年は本当につらかったです。大好きな裕翔くんを見るためには大嫌いなJUMPを見ないといけないというバカバカしい悲劇に陥いりました。他のメンバーと同列に扱われることへの嫌悪感も増していきました。嫌いなものを目に入れないように、ただひたすら裕翔くんだけを見るようにしました。そうすることでわたしはますます原理主義者になっていきました。
JUMPという枠組みの中にいたからこそ裕翔くんが好きになったのに、JUMPという枠組みにいる裕翔くんを見たくないと思うようになったのです。とんでもなく捻じれたことになりました。


裕翔くんはそれからすっかりJUMPになじんでいきましたが、JUMPになじんでいくほどにわたしは苦しくなっていきました。実を言うとそれからずっとJUMPというグループは苦手なままです。その中にいる裕翔くんを見るのは今でも苦しさがあります。
ただ前よりはずっと楽に見られるようになりました。その悲劇を軽減してくれたのはまた裕翔くんです。裕翔くんの個人仕事を見れるようになったからです。まず2012年年始に『理想の息子』いうドラマ仕事が舞い込みました。JUMPという枠じゃない裕翔くんが見られるようになったのです。本当にうれしかったし、本当に救われました。そこを全力で愛せばいいのです。そうするとJUMPというグループを見ることは相対的に少なくなって、一時期抱いていた強烈な嫌悪感も薄れていきました。その時に出たシングルのスパデリのセンターになったこともわたしの精神状態にはいい影響を与えました。裕翔くんはその時も「浮かれなかった」ということですが(大人な考えができるようになった裕翔くんかっこいい泣)わたしは浮かれました。
その後モデル仕事が始まり、今年に入ってバーターじゃないドラマ仕事もあり、JUMPという文脈じゃない裕翔くんを見る機会が増えました。それらではストレスなく裕翔くんを見ることができます。このダイアリでもよく言及しましたが、それらのことについて考えるのは楽しかったです。しかもドラマでは年上のキャリアのある俳優の方にかわいがられていました。裕翔くんがちやほやされてるのを見るのは本当に気持ち良いいことです。夢のような展開でした。


JUMPのひとつピースである裕翔くんを見たくないと書きましたが、最近のJUMPは、複雑なフォーメーションを組んだダンスであったり、積極的にメンバーをそれぞれ集合体のピースとして使う方向にいっていると思います。メンバーそれぞれの個性をアピールするというより、個性を集団に融け込ませて集団として見せていくアプローチです。わたしがショックを受けた2011年は、『over』がシングルとなり夏には『BEAT LINE』が披露されました。多人数であることを活かしたパフォーマンスを積極的に取り入れていった時期です。裕翔くんの個人的な成長もあるけれど、グループとして変わっていった時期でもあります。
JUMPのなかよし売りが確立されたのもこの時期だと思います。メンバーみんななかよしで集まればわいわい騒いでかわいいねという面を押し出してくるようになりました。それは自然とそうなっていった側面もあるだろうし、そこをグループの個性として売っていこうという意思もあるように思います。これもまた、メンバーを積極的にひとつのピースとしていくアプローチです。
今では9人でのダンスと、みんななかよしこよしでわちゃわちゃというのがJUMPの売りの柱です。二大アピールポイントと言っていいでしょう。この戦略はうまくいっていると思うし、グループとして正しい方向性だと思います。正しいです。圧倒的に正しいです。わかってるんです。
でもやっぱりわたしは好きじゃないのです。もう反射的にダメなのです。JUMPわちゃわちゃが好きじゃないとかどう考えてもこのグループを見る上で経済的じゃないとはわかっていますが、苦手なんです。JUMPのピースのひとつである裕翔くんを見たくないのです。


好きなものを見るのに嫌悪感を伴うなんて本当にばかげています。相当おかしなことを言ってるのもわかってます。でもどうしようもありません。
一回嫌いになったものを好きに反転させるのにはかなりのエネルギーがいります。そのためには、ものっすごいいいものを提供してくれないといけません。「結構いい」くらいじゃ足りません。JUMPの方向性はたぶん間違ってないのでしょうが、わたしの思いこみを覆すほどのパワーは今のところ感じてません。
そもそもわたしはJUMPというグループが好きになった人間です。ここも本当に大いに捻じれてますが、グループとして好きになって、そのグループの活動に絶望したから個人担になったのです。なのでJUMPというグループに複雑骨折みたいに負の感情が溜まってます。好きの反転から生じた負の感情が吹きだまっています。そういう負の感情があるから、わたしが「JUMPのパフォーマンス最高!」と思うためには高すぎるハードルがあるのです。よほどのことはないとネガポジは反転しません。そのハードルは不当なほど高いです。そのハードルを超えてほしいというのもムチャな話だし、都合がよすぎる願いです。だから「JUMPというグループに期待することはない」状態なのです。
こんな状態でグループのパフォーマンスを見て言えることなんてあるでしょうか。あるわけないです。どうしたって「悪くはない」くらいです。


本当に邪悪なファンで裕翔くんには申し訳ないなと思います。
かといって受け入れるために自分の心持ちを変えようという殊勝な考えも今のところありません。というか、わたしのこのネガティブな見方をなくすためには裕翔くんへの興味をなくすしか方法が無い気がします。それでは意味がなくなります。わたしがJUMPを見る理由のすべてが裕翔くんなのですから。捻じれたところから出発してるのでどこにいくにも矛盾だらけです。
だからたぶん当分はこの邪悪さを引きずって見ていくしかないと思います。わたしの感じる晴れない気持ちは、わたしの邪悪さの代償なのです。