紅葉を見ると高揚する話

どうも。メリークリスマス。
クリスマスだけど特にクリスマスと関係ない話をします。がぜん東京にいるので冬コンのレポとかでもまったくないです。名古屋には明日行きます。東京から出るのが久しぶりすぎるので本当に楽しみ。
今月のd誌のYYページで、なぜ秋になるとぬくもりが欲しくなるかについてゆうとくんがどこかで聞いたという説を披露していました。赤いものを見ると気分が高揚するから、恋したくなる、つまり紅葉を見ると高揚する、のだそうな。そんな話をするとかかわいすぎですね。ソースがあやしげな豆知識を拾い集めちゃうところとか、しかもそれが「なぜぬくもりを求めるのか」というお題なところとか素直すぎるしかわいすぎます。その話をしている様子を想像しただけで脳溢血になりそうです。(ところで、あのページに出てくる「ちぃ」って誰なんだろうとふしぎです。ふだんの「ちねん」とは別の人なんでしょうか。単に編集の人の趣味でしょうか)
その説の真偽はともかく、というかまあ無理やりな説だとは思いますが、赤い色を見ると多少の高揚感をもたらしますよね。わたしはゆうとくんを見ると赤を見てるのと似たような高揚感を覚えることがあります。
サマリーの「真紅」のゆうとくんがあまりに鮮やかで、わたしは赤を見るときの気分になりました。


以下、引用長いんでたたみます。
オルハン・パムクの『わたしの名は紅』という、オスマン・トルコの時代の皇帝お抱えの細密画工房で起こる殺人事件を軸にした物語があります。この本は章ごとに「わたしは屍」「わたしはカラ」と語り手が変わる構成なんですが、その中に「わたしは犬」や「わたしは金貨」といった、細密画に描かれた物が語り手となるトリッキーな章が挟まります。その中でもっともトリッキーなのが、細密画に描かれた「色」が語りだす章です。その色が赤で、タイトルにもなった「わたしの名は紅」が章タイトルです。以下、抜粋。

色であるのはどんなことか、とあなたが訊くのが聞こえます。色は目が触れること、つんぼにとっては音楽、闇から出てくる言葉です。(中略)わたしは紅であることでとても幸せです!わたしは燃えています。わたしは強力です。人はわたしに気付からずにはいられません。そして抗うことができないことも知っています。
わたしは隠しません。わたしにとって優雅さというのは、弱さとか希薄さの中ではなくて、決意と意志によってのみ実現されます。他の色も、影や徒党や孤独をも恐れません。わたしを待っている紙の面を自分の勝利の炎で満たしてやることはなんとすばらしいことか!わたしが広がると、人々の目は輝き、情熱は高まり、眉は上がり、鼓動が早まります。わたしを見てください。生きていることは何とよいことでしょう。見ることはなんとすばらしいことか!生きることは見ることです。わたしは至る所にいます。生命はわたしとともに始まります。そしてわたしのところへ戻ってきます。わたしの言うことを信じなさい。

この部分がとても好きです。赤という色の持つ特性を美しくうたっていると思います。
サマリーの「真紅」を見るたび、この文章を思い出していました。あの時のゆうとくんのちょっと鬼気迫る美しさは「優雅さというのは、弱さとか希薄さの中ではなくて、決意と意志によってのみ実現されます」といった表現がよく当てはまります。
思えば、わたしが転がり落ちた春の段階で、ゆうとくんは「赤」のようになっていた気がします。そこには決意と意志がありました。それまでの、09年から今年の冬くらいまでは、いうなれば透明度の高いブルーというか、薄いグレーというか、多分にはかなげな色であった気がします。そこまでロックオンしてなかったのでぼんやりとした印象ですが。はかなくて移ろいやすい色だった。それが春からは鮮やかな赤になった。そういう感じがします。それでわたしの目は輝き鼓動が早まってしまったのだと思います。
だから、わたしの中でゆうとくんの印象は赤なのです。
でも、最近の新曲PVやテレビ露出を見て、もしかしてまた違う色になっているのかもしれないと感じています。それが何なのかよくわからないし、大きな変化なのかそうでもないのか定かではないのですが、何となく変化している気がして、その予感にざわざわします。
明日それを見て確かめられるのがとても楽しみです。
まあ、実際見てしまうと「はああああんん!!!!宇宙一かっこいい!!!!」しか言えなくなると思いますが。